雨降りて 土肥ゆる。

つらつらうらうら。揺蕩う日々の虚ろな記憶の溜池。重い腰が上がらない。

まず行うべきは、試験までの教育過程の改革では?

こんにちは、お久しぶりです、かぢつです。

またしても「お久しぶり」フレーズから入るこの緩さ。ダブルワークで最近忙しくて更新したくても出来ない日々です。小渕ちゃんに関する事も書きたかったのですが、完全にタイミングを逃しました。苦笑

というか、というか、前回の記事が思いの外多くの方に読んでいただいたようで、びっくりしていました。こんなに多くの方が読まれるなら、日本語の使い方等をもっと気をつけておけばよかったと反省するばかりです。といいつつ、今回もゆるーく手抜きで書いていきますが!

さて、我が家はバッシングを受けまくっている時の人ならぬ時の新聞社、朝日新聞を現在は購読しているのですが、4日前の25日土曜日の見出しでちょっと興味深い記事を見つけました。

内容は大学入試改革についてです。もうわたしには完全に関係のない分野なのですが、教育に少し関心があるので。ログインしないと読めないのですが、これがその朝日新聞の記事↓


ま、要約すると、これからは主体的な考察力等、自立的な思考が出来る子供達を育てて日本の為の生け贄になってもらおう、っていうところですかね。ちょっと言い過ぎました。けど多分そんな感じ。

そして、試験形態も色々変わるようですね。

まず、センター試験が名を改め「大学入学希望者学力評価テスト」になり、「覚える」から「考える」力を計る教科複合型テストになるとか

2つ目は受験でも使用でき、就職活動を始める生徒の1資料にもなる、必修科目(e.g. 国語、数学等など)の習得率を計る為のテストこと高校基礎学力テスト

3つ目が、各大学でアドミッション・ポリシー」を設定し、それに沿うかどうかを判断する為の大学独自の試験ープレゼンや記述問題等々ーの実施

新聞の文面を観たところAOや推薦は廃止の方向になるようですね。

いくら少子化と言えど、採点する側は大変なんじゃないか?と読んだ当初は思いましたが、採点する側の負担を優先していたら、主体性のある人間なんて育ちませんよね。

わたし自身、大学受験の時は、推薦入試で入学した為、センター試験を受けた事がありません。というか、センター試験まで勉強し続けられる気力もいい点数を取る自信も無かったので、日々の学校での成績を上位維持し、なんとか推薦にこぎ着けた感じです。

脱線しますが今思い返すと、受験期間って一種の就職活動と同じ雰囲気があるなと思いました。推薦やAOで受かってしまった人達は迂闊に受かった事を口に出せないし、センター組は友人が一足先に受かって人の朗報を聞いてもやはり他人事で上の空で祝辞を述べる。極端かもしれないですが、ものは違えど中身は一緒なのだなと感じました。

さて、お話は戻って入試改革のお話。

現在小学6年生の代から導入が始まる予定になっていましたが...

この記事↓にも書いてある通り、唐突に試験形態だけを変えてどうするのだろうかとわたしも疑問に思いました。


「考える」力って一朝一夕に身に付くものではありません。

思考回路というものが人それぞれにあるように、習った事を頭で考えて応用してアウトプットするって、実は結構難しい。

今の教育を数学で例えるなら、1度習った数式を暗記して基礎並びに少しの応用に対応出来る感じだと思います。けれどそれは、問題数が1つの時の場合。「複合型」と言うからには、きっと数字の羅列で応用された問題ではなく、社会問題の混じった論文的文章から数字を読み取って教わった数式を少しアレンジして使う感じなのではないでしょうか。

そこまでのスキルをこの教育改革で求めるとは思いませんが、詰まる所、そんなところ。それが、わたしが思う「考える」力です。

そして何よりも「考える」力を養う為にやってはいけない事を、今の日本の教育では行っていると思います。

それはつまり、正しい解が存在し、そして問題を解くとは畢竟、それを導きだす事。

日本の教育では、「正しい答え」を導きだす事が求められ、その答えではない、「もしかしたらそれが答えともなり得るかもしれない答え」などは切って捨てられてしまいます。

私事ではありますが、高校・大学とカナダ・アメリカに1年程留学をさせていただきました。アメリカの大学は、ご存知の方も多いかと思いますが、入学は比較的容易(って言ってもそれなりにテストとか色々あります)で、卒業が至極難しいと言われています。卒業するためには意欲的に自主的に、講義を受け、課題をこなし、テストに向けて日々勉学に励みます。

わたしが留学した時も、現地の学生達は課題をこなし、予習を行い、講義中も積極的に発言していました。

驚愕するのはその勉強量。わたしが通っていた大学も、都内の有名大学等と比べると課題や勉強量が比較的多く、多くの学生が図書館に籠って勉強していましたが、まさかそれを悠々と越えて来る課題の量を出されるとは思いませんでした。

週末を返上して図書館で泣きながらホッブズやロック、ルソーを読んでいましたが、それでも2時間に渡る授業の範囲をカバーしきれず、苦しんでいました。そして若干の古英文なので理解が難しい。

それを見かねた教授が声をかけて下さり、何度か勉強の手伝いをして下さいましたが、その時、教授はわたしのわけの分からない意見(が大半だったと思います...orz)や的外れな質問も「良い着眼点だね!」と肯定しながら応対して下さいました。

その姿勢は授業でも同じで、他の先生の似たような教科を履修しましたが、他の教授も同じようなスタンスでした。

そこで思ったのが、やはり、自分が発した意見を肯定してくれる、又は参考にしてくれる(「そういう見方もあるのね!参考にするわ」とか)授業スタイルだと、自ずと意見も言いやすく、また、脱線したとしても、それがまた「考える」力に結びついて行くと分かりました。

要は、ブレインストーミングと同じなんです。その日の授業範囲がブレインストーミングの核の部分になり、そこから色々な枝が、教授の進行方法や学生の意見によって伸びて行く。

けれど日本の授業では、先生は生徒に知識を教授するのではなく、枝葉を切ってしまった1本道を押し付けるだけに思えます。

それでどうして、大事な大学受験で、今まで教わってきた教育とは違う方法で自分なりの解を見つけ出せと言えるでしょうか。

与えられた事をこなさせる日本の教育では、与えられた事を考えて自分なりにこなす行為を試す試験を実施するのは無意味だと思います。

試験を変えるのではなく、まずは教育の仕方を変えなければ誰も何も育ちません。

教育は興味へ繋がり、そして子供達の将来へと繋がって行っているはずです。その辺りを踏まえつつ、もっと先を見据えた大きなビジョンで改革を考えられないものかと憂います。

って、中教審の人々自体がそう言う教育を受けてきたから難しいのかな...なんてふと思ってしまった今。

教育って難しい。